
MSから押し付けられたIEをそのままお使いの方が多いと思いますので、やむなくそれに合わせて改造しつつあります。 ウィーンお勧めレストラン このページを見たと言えば特典あり! |
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ここにご紹介するのは、われわれ20世紀を生きた人間にとってはあまり愉快なものではありません。20世紀はどのような世紀であったのか、幻想を打ち砕いてしまうものなのかもしれません。20世紀を通じて、人類は、大変な勢いでその数を増し、特に一部の人々は生活レベルを飛躍的に向上させることに成功しました。その反面、侵略戦争を繰り返し、民族浄化という狂気に駆られて、虐殺をおこなってもきました。それは、21世紀となった今も止んではいません。われわれが20世紀からなんらかの教訓をえようとするなら、少なくとも、事実から目をそむけるべきではないでしょう。 もちろん、〔事実〕とは何か、疑問の余地がないわけではありません。見る立場が違えば、違った事実が見えることも否定できないでしょう。第二次大戦中、日本軍は多くの女性を慰安婦として虐待しましたが、彼女たちが進んで慰安婦になったと主張する人間がいます。アウシュヴィッツにガス室はなかったと信じている人々がいることも周知の事実です。また、広島・長崎への原爆投下に対しては評価が分かれています。しかし、多くの虐殺がおこなわれたこと、今もおこなわれていることまで否定できないのではないでしょうか。 何を事実として受け入れるか、事実に対してどのように振舞うか、それがわれわれの未来 ―― もしあるとすればの話ですが ―― を決定するのではないでしょうか。 |
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2008年末から2009年1月にかけて、《ガザ地区》に対するイスラエル軍の攻撃がありましたので、二度目のイスラエル訪問を敢行しました。思ったとおり観光客が少なくて、ある意味では快適でした。 ともかく、解決の道筋がまったく見えない現状は、一観光客の眼にも悲惨なものでした。 〔2009年5月31日記〕 |
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南京大屠殺紀念館が増築されてリニューアル・オープンされたと聞きましたので、2008年11月に再訪してきました。 〔2009年5月31日記〕 |
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ヴェネツィアは〈20世紀の負の遺産〉というわけではありません。1516年に最初の《ゲットー》がこの街に作られました。実態としてのゲットー、つまりユダヤ人居住区はイタリアにもドイツにももっと古くからありましたが、《ゲットー》という名称はここで生まれました。しかも、古い姿を良く残していて、かつての生活を偲ぶこともできます。リルケの「神様の話」をぜひお読みください。 〔2008年4月29日記〕 |
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広島県大久野島 |
日本軍は、中国で細菌兵器の製造・実験を行っていただけではなく、国内で毒ガスの製造も行っています。今も日本軍が残した毒ガスの被害が出ていることはご承知の通りです。瀬戸内海に浮かぶ小島「大久野島」は、別名「毒ガス島」と呼ばれる毒ガス製造の島でした。 〔2005年10月9日記〕 |
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広島については何も語る必要はないでしょう。人間の悪を象徴する町です。
〔2005年10月9日記〕 |
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長春は日本が満州国を作っていた頃、首都として人工的に造った街です。現在は吉林省の省都となっています。その頃は新京と呼ばれていました。計画的に造られましたので、どの通りもまっすぐで広々としています。私には理由はわかりませんが、かつて日本が造った建物が今でも利用されています。植民地支配を受けた屈辱の歴史的建築物として残すのならわかりますが……。
〔2005年4月9日記〕 |
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柳条湖事件 |
柳条湖事件は9月18日だそうで――中学校で習ったはずなのですが、忘れてしまいました――、この屈辱の歴史を記念するために江沢民によって建設された施設がかつての現場にあります。場所は瀋陽(かつての奉天)市郊外です。見せたくないものが並んでいるせいか、内部は撮影禁止です。「世界を征服するためにはまず中国を征服しなければならない、中国を征服するためにはまず満州を征服しなければならない」(大意)という有名な偽書も展示されていました。愛国教育――実質的には「反日教育」――に対して文句をつけるつもりはありませんが、歴史的な検証を少しは尊重しても損はしないはずなのです。困ったことに、中国には統計学と歴史学は存在しません。 趙紫陽が首相だったときに、中国の人口を問われて「天のみが知っている」と答えたそうです。自国の人口さえ知らない支配者の国です。かつて「大躍進」の時代に、地方幹部が自分の成績をあげるために嘘の数字を上にあげて、それを合計したとんでもない数字を毛沢東は信じて大喜びしたことがありました。 歴史に関しても同様のことがあるようです。何もかもが支配者である共産党に都合の良いように偽造されている危険があるのです。いかなる検証も議論もかたくなに許さない態度は、嘘吐きであることを自白するようなものです。ただ、歴史は、本当は何があったのか、なぜそれがあったのか、それがどのような意味を持つのか、などを考えると、本当のことは誰にも分からないのです。たとえば南京大屠殺の犠牲者数など、誰に分かると言うのでしょうか。議論すべきなのは、侵略戦争の原因です。 〔2005年4月9日記〕 |
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平頂山惨案遺址紀念館 |
1932年9月16日、撫順市近郊のこの村で日本軍による虐殺が行われました。犠牲者数は3000人以上だそうです。この紀念館には発掘された800体ほどの遺骨が発掘されたままの状態で展示されています。殺害に使われた銃弾なども展示されていますが、日本軍による虐殺行為を否定する人たちのために、銃弾や遺骨――ひとかけらでも――提供してくれれば、遺体の性別、年齢、民族、死因、銃弾が日本軍のものであることなど、多くのことが分かるのですが、「検証」ということに対して、中国人のなかには「疑うのか!」と言って激昂する人がいます。何か隠したいことでもあるのだろうかと、つい疑いたくなってしまいます。反日の中国人はたくさんいますが、彼らの精神状態に関しては、私などには良くわかりません。彼らのなかには、日本を「先進国」だと思って、日本に対する劣等感のようなものを持っている人もいます。「先進国」を見たことがないようです。日本人のようにマナーの悪い人たちは、とても先進国の市民とは言えません。余計な話ですが、マナーの悪さでは、日本人と中国人は良い勝負です。 〔2005年4月9日記〕 |
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旅順市203高地 |
旅順は現在も軍港ですから、外国人の立ち入りは制限されています。大連からタクシーで旅順を往復しましたが、203高地と水帥営のみ立ち入りを許されていますので、この二箇所だけに行きました。
〔2005年4月9日記〕 |
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ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、1992年から95年まで続いた独立戦争、内戦で、完全に包囲され、市民は食料も燃料もない生活を強いられ、砲撃や狙撃によって1万人以上の犠牲者を出しました。かつて隣人だった者同士が殺し合い、民族浄化という狂気に駆られて、ナチズムが現代に復活したかのように強制収容所を作り、多くの女性が強姦の被害にあいました。 停戦合意から8年半が過ぎ、建物の復旧は進み、市民の生活はすっかり落ち着きを取り戻し、特に若い人々の明るい表情は印象的でした。しかし、かつて混住していたセルビア人、クロアチア人、ムスリム(イスラム教徒)たちは、今ではすっかり住み分けるようになって、互いの往来もすっかり少なくなってしまったようです。かつて殺しあったのですから、拭い去りがたい不信感が残るのは当然なのでしょう。 今回の旅で知り合ったボスニア人が言うところによれば、戦前には見られなかったムスリム女性のスカーフ姿が、今ではかなり目に付くようになっています。確かに、20代から50代の女性にスカーフ姿が目立ちました。ボスニアのムスリムにとっては、民族抗争が民族主義を生み出すことになったのです。 NATOの安定化部隊が町中にいますから、治安は保たれていますが、今後に関しては予断を許さない状態です。経済的にも失業が多いなど問題は山積しています。また、戦争犯罪人として国際刑事裁判所から訴追されている人物が、今もボスニア国内に潜伏しているなど、多くの不安定要素が残っているのです。 〔写真は120枚以上ありますので、表示に時間がかかります。ご了承ください 2004年5月2日記〕 |
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ボスニアのモスタルは、独立戦争・内戦時には、川を挟んでモスタル市民同士が小火器で撃ち合うという事態に至りました。それから8年半の時が流れ、モスタルは表面的には平静を保っています。しかし、廃墟と化した多くの建物が今でも放置されています。 〔2004年4月30日記〕 |
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クロアチアの最南端ドブルヴニクは「アドリア海の真珠」と呼ばれたとても美しい小都市でしたが、独立戦争のときにセルビア軍の砲撃を受け、破壊されてしまいました。今ではすっかり復旧され、かつての姿を取り戻しています。残念ながら写真では町の美しさのごく一部しか伝えることができません。 〔2004年4月29日記〕 |
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マウトハウゼン強制収容所 |
ウィーンから列車で2時間から2時間半ほどのところにある強制収容所です。写真は53枚あります。〔2004年5月11日〕 |
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オーストリア人は自らがナチズムの加害者であることを忘れているようです。〔2004年5月8日更新〕 |
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2003年8月末、前年に杭州で知り合った女子学生に付き合ってもらって、上海・北京へ行ってきました。ここでは、盧溝橋のほか、万里の長城・天安門広場・胡同などの写真をお目にかけます。〔2004年2月5日記〕 |
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ポーランド アウシュヴィッツ強制収容所 |
ポーランド南部の古都クラクフ〔映画『シンドラーのリスト』をご覧になった方も多いと思います〕から約70kmほどのところに、オシフィエンチムという町があります。ここにアウシュヴィッツ強制収容所があります。 付録:イスラエル「ホロコースト記念館」 |
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アウシュヴィッツ 第二収容所ビルケナウ |
アウシュヴィッツ第二収容所として建設されたこの収容所は、文字通り、絶滅収容所でした。他の収容所には多少なりとも強制労働のために収容所という意味あいがありましたが、この収容所に送られた人々の大半は、まっすぐにガス室へ送られたのです。 |
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ザクセンハウゼン強制収容所 |
ベルリンから北へ、郊外へ向かう電車で1時間ほど行ったところにオランニエブルクの町があります。この小さな町の町外れにこの収容所があります。アウシュヴィッツと同様、ここでもチクロンBによる虐殺、生体解剖が行なわれました。 |
| 獨協大学の学生 久保田智子さんに提供していただいた写真を掲載します。この収容所はミュンヘンの近くにあります。 | |
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日本軍第731部隊本部跡 |
中国東北部、黒龍江省ハルピン市の郊外にかの731部隊の本部がありました。この部隊は、生物化学兵器の開発のために、多くの中国の人々を生体実験のために虐殺しました。本部の建物は、長いあいだ小学校として使われてきましたが、世界遺産に登録するための整備が現在進められています。 |
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日本軍による南京大屠殺 |
中華民国の首都南京は高い城壁に囲まれていたにもかかわらず、1937年12月13日、わずか3日間の攻防戦を経て陥落しました。この日から翌年3月にかけて、日本軍による大規模な虐殺、強姦、略奪が行なわれました。 中国側は、虐殺の被害者数を30万人以上と主張しているのに対して、日本側の主張は実にさまざまです。 |
プラハ・ベルリン・ドレスデン・クラクフなどヨーロッパ各地、イスラエル、トルコ、黒龍江省のハルピン・佳木斯〔ジャムス〕、日本国内の写真を追加しました。目次のページをご覧ください。
目次のページへ;閲覧してくださる方の便宜を図るため、全体の目次のページを作成しました。こちらからご覧いただいた方が便利かもしれません。 | |
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杭州、紹興、牡丹江――マイナス23度でした――、ハルビン、長春、瀋陽、撫順、大連と歩き回りました。上海空港まで迎えに来てもらって、杭州と紹興は娘とふたり。娘に別れを告げて上海から大連に飛び、大連から先は、兄、兄の友人、通訳兼ガイド役の中国人留学生、それに私の四人だったのですが、疲れました。紹興では娘の目の前でバイクにはねられるなど、トラブルもありましたが、娘と一緒の時間は楽しめました。娘のことがなければ、中国は相変わらず汚いですし、もう行きたくはないのですが……。 娘と会うのは三度目ですが、最初は19歳、二度目は21歳、今回は22歳になってしまいました。私がバイクにはねられたりしたこともあって、通りを渡るときや、滑りやすいところを歩くときには私の手を引き、私が食べているのをうれしそうに見つめるなど、すっかり世話焼きのオバハンになってしまいました。19歳だった頃の天真爛漫さは残っていましたが。でも、19歳だった頃の可愛いかった娘にもう一度会いたい!ですね。 あまりにも世話を焼くので、「お前は母親か!」と言ったところ、「そんなに年寄りじゃない!」と言い返してきました。「じゃあ、若いのか」と言うと、「そんなに若くない」としょんぼりしていました。ちょっと可哀想なことをしたかも。街中で「ママ!――中国語です――」と呼んだら、知らん振りをするべきだったのに、うっかり振り向いてしまって、真っ赤な顔をしていました。こういうところは可愛い。というわけで、娘に会うためにまた中国へ行ってしまいそうです。「オバサン」という意味の中国語も覚えました。 |
| お詫び1:このページは写真で構成されていますので、環境によっては表示に時間がかかります。表示に要する時間を短縮するために、画像ファイルを小さくしていますが、今度は逆に画質が犠牲になってしまっています。ご了承ください。 |
| お詫び2:無料のサーバーなので、どうしても上下に広告がついてきてしまいます。見苦しくてすいません。 |
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なお、このページに関するご意見、ご感想は募集しておりません。あしからず。万が一、何かに写真をお使いになりたい場合には、諦めてください。絶対に許可しません。かつて一度だけ、インターネット博覧会への展示をしていただいたことはありますが、あれはあくまでも例外です。 ただし、たとえば、モスタルへの行き方などをお聞きになりたい場合には、お答えすることにしました。negatives_erbe@infoseek.jp までメールでお問い合わせください。このページのアドレスは-(ハイフン)ですが、メールアドレスは_(アンダーバー)です。negatives Erbeはドイツ語で『負の遺産』という意味ですが、本当は定冠詞が必要ですから、ドイツ語としては正しくありません。 |